安東聖空

昭和かな書壇の巨匠 安東聖空

安東聖空は明治26年(1893)8月19日、赤穂郡船坂村(現上郡町)梨ケ原36番地に生まれました。梨ケ原尋常小学校の学籍簿をみると、明治37年の卒業生の中に安東正郎の名がみえます。この児童が後の安東聖空です。安東は、大正3年(1914)県立姫路師範学校を卒業、小学校訓導となります。同僚の教員に勧められて、大正9年、文部省中等学校教員試験習字科試験に合格し、書道の道に入ります。同年、神戸の臨時教員養成所の書道教師、同11年神戸第一高等女学校の習字科担当の教諭となりました(昭和15年まで同校勤務)。大正14年には文検習字科合格の後輩とともに書道研究団体正筆会を興し、その会長になりました。昭和4年(1929)には月刊書道誌「かなとうた」を創刊した(戦後は「和道」、「遊絲」、その後「正筆」と改題)。近代かな書壇は大正末のこのような文検合格者の小さな集団から始まったのである。

このころ尾上柴舟がようやくかな書きを探りつつあったが、安東はほとんど独学で、藤原行成の「粘葉本和漢朗詠集」を手本に、かな書道を研究し、「高野切」にみるかな(中字)の流れの自由さ(連綿と散らし書き)と品格を学び、「関戸本古今集」「元永本古今和歌集」の側筆(筆を傾けて書くこと)の微妙さと渋さを大字のかなに導入し、日比野五鳳・桑田笹舟(安東門下)・深山龍洞・宮本竹逕らがいるのいる昭和の関西書壇の先頭に立ち、かな書きの地位を画期的に高めた近代かな書壇の創生者といえます。

かな書きの普及のために、昭和15年(1940)以降『梅雪色紙帖』『梅雪かな帖』『梅雪手紙帖』などの習字手本を出版しました(梅雪は昭和4年からの安東の雅号。22年聖空と改めました)。その後『聖空仮名書道研究叢書』三巻、『古典かなの美』三巻、『聖空作品集』などを刊行、『昭和53年聖空百人一首展』(東京高島屋)、55年歴代天皇御製百首展(東京三越、翌年大阪三越)を開催するなど、かな芸術に高い業績を残しました。

昭和25年(1950)日展審査委員、26年には兵庫県文化賞を受賞、33年日展評議員、34年日本書芸院会長、35年日展出品作「みなこそ」で芸術院賞を授与されました。47年日本書芸院会員に推され、55年書壇4人目の文化功労者となりました。昭和58年3月3日没しました。母校の旧梨ケ原小学校には聖空の句碑が残っています。

高杉のこす(ず)え すると(ど)し霧 はるゝ 印文「聖空」   『上郡町史』第二巻より

安東聖空先生(梨ケ原公民館提供)

梅雪色紙帖

 

 

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