大鳥圭介

大鳥圭介は、天保3年(1832)赤穂郡細念村(現在の上郡町岩木丙)で代々村医者を務める大鳥家の長男として生まれました。
岡山の閑谷学校で学んだのち医師となるため修行していましたが、蘭学に興味をもち、大坂の適塾、江戸の大木塾で医学や兵学、工学を学び、江川塾に招かれ教授となりました。
その後、江戸幕府に登用され、歩兵奉行に抜擢されましたが、大政奉還後の戊辰戦争では土方歳三や榎本武揚らとともに各地で新政府軍に徹底抗戦し、最後は箱館五稜郭で降伏しました。
降伏後は入牢しますが、教え子であった黒田清隆らの尽力により赦免され、明治新政府に出仕。技術官僚として日本の殖産興業に尽力し、工部大学校長(現在の東京大学工学部の前身)や学習院長として多くの人材を育てました。その後も、清国・朝鮮国公使として日清戦争前の困難な外交交渉に当たるなど、日本の近代化に大きな足跡を残し、明治44年(1911)神奈川県国府津の別荘で波乱万丈の生涯を閉じました。
圭介は知的好奇心が非常に旺盛で、西洋書物を読み解いて日本初の国産カメラや金属活字をつくりました。また、故郷上郡の発展のため、養蚕・養豚・製紙等の指導、学校建設への資金提供、鉄道誘致への助力などを行いました。
現在、生家跡に建ついきいき交流ふるさと館では、直筆の書や関連資料の展示などでその偉業に触れることができます。