赤松円心

赤松則村(出家後に円心を名乗る)は、鎌倉時代から南北朝時代にかけて活躍した武将です。建治3年(1277)播磨国佐用庄赤松(現在の上郡町赤松)に生まれました。

若いころの動向は不明ですが、鎌倉幕府の出先機関である京の六波羅探題に勤務する御家人であったとする説もあります。また、山陽道に近い赤松の地の利を活かして、中国山地からの木材や鉄などの流通を掌握し、力を蓄えていったとみられます。

歴史の表舞台に登場するのは元弘3年(1333)57歳の時、後醍醐天皇の皇子である大塔宮護良親王の令旨を受けて幕府打倒の兵を挙げ、山陽道を東上して京へ進攻、六波羅を攻め落とすなど建武政権の樹立に多大な功績を挙げました。

しかし、政権内部の対立から護良親王派として失脚、足利尊氏が政権に反旗を翻すと行動を共にして政権方と戦いました。また、尊氏が敗れて京を追われると、九州へ下って体制を立て直し、朝敵となるのを免れるため後醍醐天皇と対立する光厳上皇より院宣を得ることを進言したといわれています。その後、新田義貞率いる6万の追討軍を白旗城で50日余り釘付けにして進撃を防ぎ、勢力を盛り返して東上してきた尊氏と合流して京へ攻め入るなど、室町幕府成立の立役者となりました。

この功により、円心は播磨国守護職に任命され、その後の守護大名赤松氏興隆の基礎を築きました。貞和6年(1350)京都七条の邸宅で74歳の生涯を閉じ、京都の建仁寺久昌院に墓が、上郡町法雲寺に供養塔がのこされています。